【目次】
『フロイトの技法論』
1905 『魂の治療』
1912 『分析上の注意』
1912 『転移の力動性』
1918 『分析療法の道』
1937 『構成の仕事』
1938 『精神分析学概説』
【臨床家フロイト】
なぜ今頃「フロイトを読む」なのか。フロイトなんて100年前の町医者です。テレビもインターネットもない時代。世の中が大きく変わっています。最近の若い臨床心理士の人たちと話をしていても、フロイトは読まれなくなっています。著作集の第一巻(『精神分析入門』)の初めのほうだけ読んで、あとは○○先生(○○の中身は多数)の『フロイト入門』とかでお茶を濁しています。それで「わかった」と思っています。
なんか、もったいないんですよね。著作集の前半は「理論家フロイト」です。もちろん、フロイトの理論も面白いです。「自我・エス・超自我」を「私・それ・私を見る私」というドイツ語のニュアンスのまま読んだり、「タナトス」を、仏教風に「生死の中に生死なし」(「ニルヴァーナ原則」とはそういうことです)と読んだりするだけで、わくわくしてきます(^^)。でも臨床家になりたいのなら、著作集の後ろから。そこには「臨床家フロイト」がいます。彼こそ、この分野の先駆者です。患者さんの話に「意味がある」と耳を傾けた男です(フロイト原理主義者の本心とすると「技法論13篇以外はすべて偽書だ」とか「朝昼晩はウィーンの方角に礼拝すべし」とか暴言吐きたいけどね。笑)。
最初の臨床家であるフロイトは、他の先駆者の言葉に頼ることができません。後の時代は楽です。「フロイトが言ったから」と言えば、自分のやってることが正当化されますから。でも、フロイトも間違ってるかも知れないじゃないですか。というか、初めての分野を切り開くということは、「大半が間違いだらけ」と考えたほうが良いくらいです。それを一番自覚しているのがフロイト自身。それでもフロイトを読む価値があるとしたら、それは「彼には正当化する方法がなかった」ということに尽きます。自分の船の舵を握っているのは「治療がうまくいくかいかないか」の結果だけ。そのギリギリの状況におかれた「先輩」として、僕はフロイトを応援しています。
【フロイト原理主義】
では、そういう僕はフロイトの「真実」を知っているのか、となると、疑わしいです。というか、「本当はフロイトは何が言いたかったのか」には興味が湧きません。そうではなく、「僕自身が臨床で何をしているのか」に興味があります。それは、先輩フロイトの文章を読むうちに、そこに投影されたり織り込まれたりすることを期待しています。そういう形で浮かび上がってくるのは、僕が「ああ、そうだ」と納得した治療論の集まりになるはずです。もちろん、先輩フロイトのほうが遙か先を歩んでいて、「お前のは甘い」と叱りつけてくれることもあります。うれしい限りです。「責め」があるうちは、僕は自分の臨床をマンネリ化させなくて済むでしょう。
今現在の時点で僕がつかんでいる「フロイトの治療プロセス論」は、次の通りになります。
第一段階 感情移入の段階
第二段階 転移分析の段階
第三段階 再構成の段階
【感情移入の段階】
精神分析は、クライエントは寝椅子に横になり、頭に浮かんでくることをなんの取捨選択もなく、セラピストに報告せねばなりません。それが「自由連想」の原則です。たぶんこれは「身体的にも精神的にも、弛緩した状態を作る」なのだろうと思います。これを応用したのがウォルピで、そのまま段階を追って不安の話をすると、系統的脱感作法になります。フロイトの時代は、最初は催眠術に頼っていたのですが、まあ、彼は催眠術を掛けるのが下手だったので(笑)、別の方法を発明しました。それが自由連想法です。もちろん、自由連想が苦手な人もいますが、その場合は「夢」を報告してもらえば同じ状態を作れます。夢の報告をするとき、ひとは夢を見ているのと同じ体感、つまり寝ているのと同じ弛緩状態になります。うつらうつらと。でも意識のある状態。この原理を利用したのが、フロイトの「夢分析」です。
さて、問題はそこではなく「最初は感情移入だけだ」ということです。セラピストは、自分の無意識がクライエントの無意識とチューニングすることを目指します。波長が合わないうちは、なにもしません。「自由連想」の役割はチューニングにあります。「答」を教えるのではない。カウンセラーが思いついた解決法なんて、その人の人生から見たら一時しのぎに過ぎません。禅の「教壊」と同じように、教えれば相手の解決能力を壊します。ただ「専門家」への依存を増すだけ。そうではない。「答」は無意識が知っている。無意識に教わろう、という姿勢が精神分析です。これを「禁欲原則」と呼びます。この部分は『分析上の注意』に詳しく書かれています。
【転移分析の段階】
この感情移入の状態を保つと、第二段階に入ります。これは「釣り」に近いですね。釣り糸を垂れて、ただただ「機会(テュケー)」を待つ。つまり、連想が途切れる瞬間が訪れるのを待ちます。弛緩状態を保っていたのに、意識が緊張する点があるわけです。肩コリのように「意識のコリ」がある。そこを「抵抗」と呼びます。無意識の言葉が意識化できずにいる点。凝ってるわけですから、そこを揉みほぐします。その部分に何度も話を向け直して、マッサージする。フロイトには二重の思いがあって、そのコリを「なにかトラウマに関係すること」と考えている節はあるんですが、同時にそういう仮説を退けています。むしろ「今までなかった新しい対人関係の目覚め」と捉えたほうが、彼の論旨はすっきりします。それを「転移」と呼んでいます。これが「新しい対人関係」のひな形になります。そのことは『転移の力動性』で。
この段階は「自由連想」ではありません。チューニングした状態を保ちながら、セラピストとクライエントの二人が協力し、二人の間に起こっている「関係」に注意を移します。釣り糸を引っぱり上げます。話題が「今ここ」に対して湧いてくる感情や記憶に向けられます。クライエントとセラピストの共同研究という三角形。転移分析です。この段階になると「症状」は消えるので、「転移性治癒」と言われます。「転移性治癒は本当の治癒ではない」なんて言いますが、それは、簡単に治ってしまうと分析家の収入が減るからです(笑)。転移性治癒も治癒です。自由連想の段階で、クライエントは「無意識に耳を傾けること」の心地よさを学んでいます。ここで終わっても良いんじゃないでしょうか。『分析療法の道』はそう読めます。「本当の治癒」とは「自分の本質を生き続けること」。エスという海に「魚(ダイモン)」は無尽蔵に棲んでいます。終わりはありません。
【再構成の段階】
転移が生じた後、精神分析は第三段階に進みます。『転移の力動性』で「生活史に位置づける」と述べられた技法が、さらに発展して『構成の仕事』では「再構成」と呼ばれています。「過去」は過ぎたことではないし、「未来」はまだ来ていないことではありません。どちらも「現在」のなかに息づいています。再構成を通し、クライエントはセラピストに転移していた「明るい期待」という「未来」を自分の人生に位置づけます。釣られた魚は海に帰ります。「私」は、「私の物語を生きる私」となります。クライエント自身のなかに、自分のセラピスト(未来から今を見る私。自我理想)が形成される。『魂の治療』は、そういう全体の流れを押さえています。
今の時点で僕が到達している認識は、以上の通りです。「へぇ、そうなのか」と納得された方は、すみませんが原典に当たってください(^^;。僕は、自分で「ウソ」をついてるのをよく知っていますから(^_-)☆。
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