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『分析医に対する分析治療上の注意』(1912年)

「分析医は自分の無意識を受容器官として差し向けねばならない」

精神分析のハウ・ツー本。というか、精神分析という技法をフロイトがどう考えていたか示す覚え書きです。実際この頃、精神分析はまだ始まったばかりの試行錯誤の段階にありました。驚くほど目覚ましい展開をして治っていく患者さんに会えば「これこそ、正しい治療法だ」と舞い上がり、次に来た患者さんに同じことを試みても「ああ、あかんかった」と落ち込む。特にフロイトは創始者であり、自分の道の先導者はいません。「私の長年の経験から」と書いていますが、その内容は揺れ動く自己評価、疑心暗鬼、技法の改良と放棄、矛盾、日々の新しい発見とスランプの歴史だったでしょう。その中から9つの原則を書き出しています。でも、フロイト自身が指摘しているように、それは「たった1つのこと」を角度を変えながら表現したに過ぎません。精神分析の実践はシンプルなものです。

【9つの禁止】
さて、その9つの原則を要約してみます。
(a) 記憶してはいけない
(b) 筆記や速記など、記録してはいけない
(c) 病歴の詳細な聴取をしてはいけない
(d) 学問的に利用しようと意図してはいけない
(e) 「自分が治している」と自惚れてはいけない
(f) 患者の報告を検閲してはいけない
(g) 分析医が自己開示をしてはいけない
(h) 本能の昇華を目的としてはいけない
(i) 過去の生活を想起するように促してはいけない

全部否定文で書いてみました(^^;。分かりやすいと思います。3つにグループ化すると、(a)〜(d)は「情報収集しないこと」、(e)〜(g)は「治療者がしゃしゃり出ないこと」、(h)と(i)は「話を方向づけないこと」になるかな。つまり、この9つの原則は、フロイト自身がよく足を突っ込んでいる落とし穴です(笑)。症例自体で分厚い本を書く。精神分析の名声を高めたいと思っている。患者を自分の家の夕食に誘ったりする。過去のトラウマが何かを知りたがる。どれもフロイトの「欲望」です。そして、後代の治療者たちは、そういう態度が「精神分析」だと「誤解」してきました。

でもフロイトは「それはあかんかった」と自戒してるのです。もちろん、それぞれ「これはフェレンツィのこと」「これはユングのこと」と、まあ、攻撃対象が見えたりもしますが、それは本質ではありません。この9つを貫く1つの原理があるからです。精神分析がクライエントに課す原理が「思い浮かぶことを取捨選択せずに報告してください」であるように、分析医に求められる態度は「思い浮かぶことを取捨選択しない」なのです。「患者から聞き取ったことは、そのほとんどが後になってからやっとその意味が分かってくる」。

【テレパシー】
フロイトは電話の比喩を持ち出します。1912年は、まだ電話も普及していないように思うのですが、新しい物好きなんですね。クライエントの無意識に思い浮かぶことは、セラピストの無意識によって受信され、伝わってくる。そういう電話機です。「われわれはただ耳を傾けてさえいればよい。何に注意したらよいかということには気を遣う必要はない」。頭では何も考えていません。むしろ、意志や集中力は治療の妨げ。意識は、すでに自分の知っていることを情報の中から見出そうとする機能です。分かっていることを再発見して「思った通りだ」と言ってみても、なんら症状は改善しません。

心が動き出すには「分かってないこと」が不可欠です。「種々の危険な状況に襲われては驚かされる場合、最もよく成功する」。既知の世界に、全くの異界から「分かってないこと」が紛れ込んでくる。それは「驚き」として感じ取られます。でも、意識には捉えることが出来ません。分析医が治療の道具として使えるのは、自分の「無意識」だけなのです。「分析医の無意識は、患者が思い浮かべた事柄を決定している無意識そのものを再構成するのである」。明鏡止水。治療のプロセスが停滞するとしたら、それはクライエントの要因ではなく、セラピストの意識がむくむくと頭をもたげ、妨害しているからです。

【ビオンについて】
ビオンの「記憶もなく、欲望もなく、理解もなく」の論拠としてこの論文を読んだのですが、なんか読み直してみて、当たり前ですねぇ。この原則は「分析家は、過去や未来、現在に潜むものに興味を向けない」という態度を示し、仏教風に言うと「即今目前聴法底」の態度。ビオンはなにより「分析家の好奇心」を重視する人です。フロイトが「驚き」と書いてるところだろうなあ。つまり「今ここ」から自分の心をずらさない。それは、クライエントよりもセラピストに課せられている原理原則。「感情移入以外の態度で振る舞えば、成果が台無しになってしまうのは言うまでもない」(『分析治療の開始について』)。

症例検討のスーパービジョンを聴いて「すごいな」と唸らされたり、本を読んで「なるほど」と思う先生やセラピストの言ってることって、いつも僕なんかはどれも「同じ」に感じています。流派としては400の理論や技法があると言われますが、「達人」たちのやってることは1つだけ。その「たった1つのこと」を、普通に臨床を始めただけでは体得できないから(漫然と何十年も臨床にいても体得できない)「こういうふうに注意したらいいですよ。こんな気持ちで聴いてみたら?」と提案してくれてるのが、無数にある「理論」の役目だろうな。

ぴったりとしたコメントをされる先生は、要するに、ケースの流れをありのままに聴いて、聴いたとおりを言葉にされてるだけ。その「聴いたとおり」というのは難しいけれど、でも出来ないことではない。しかも、それこそ科学的な態度。臨床心理学が「科学」なのは、人間一般の「心」という、あるのかないのか分からないモノを研究するからではない。そうではなく、分析家と被分析者という二人の「科学者」が、被分析者の「心」という現象(コト)を科学する試み。たぶん、そういうことだな。

フロイトは「ありのままに聴く」を実践するためには、教育分析が必要だと説いている。セラピストは、まずクライエントにならなければならない。それだけ、私たちの「心」は、それまで身に付けてきた「常識」によって、知らずしらず汚されていると言うことなのだろう。思い込みによって、目が曇らされている。もっとも彼は「教育分析が受けられなかったら、夢日記を書くのでも良いですよ」と言っているので、それでも良いかも(笑)。クライエントの人もカウンセリングなんか行かなくても、夢を見たとおり「ありのまま」に想い出す練習を繰り返していけば、結構この能力、身に付くし、自分の内なるものに驚かされるんじゃないかな、と思います。

【虚心】
「スクリーンになること」や「身を隠す」。そういえばどこかでレヴィナスが、旧約聖書の神、ユダヤのヤーヴェが天地創造を行ったとき、まず「自らの身を縮小した」と発言していたのを連想しました。日本神話も同じですね。原初神は「身を隠す」。なぜなら、新しく生まれる「宇宙」に対して、場所を譲らなければならないからです。神のみが存在している空間においては、何も生じることは出来ません。神が創造のための「宇宙」を対象化するために、「空っぽ」のスペースを必要とするのです。

心理療法において、それはどういうことなのでしょうか。心理療法で新しく生まれてくるのは、クライエントの「言葉」です。今まで使われたことのない「言葉」と邂逅するにはスペースが要ります。「空っぽ」が必要です。それが「どこか」と問えば、セラピストの心の中なのです。セラピストは、自らの充満する心を一度「隠し」、空っぽの領域を設けます。その「虚無」が受け皿になり、クライエントの言葉がそこに流れ込んできます。老荘思想で言う「器の用」(それを自らに生み出せる人を「器用」と呼ぶ)。

心を「空っぽ」にすること。語られる連想そのままが、その空間に流れ込み、セラピストの心に「感染」します。精神分析は「同病」となることです。鬱の心に向き合えば、セラピストも鬱になります。恐怖症の心に向き合えば、セラピストも恐怖症になります。幻聴も感染します。希死念虜も感染します。その感染を「通り抜ける(durch-arbeiten)」のがセラピストのプロとしての腕前。地獄への道中を同伴するヘルメスの技です。

いかなる狂気も「先触れ」です。「気が触れる」の元来の意味は、新しい変化を誰よりも先に感触する、感じ取る、そういう鋭敏な霊的感性を指しました。依り代として、「神」という名の「変化」を言語化する者。膠着し、ただの自動機械に成り下がった「既知の体系」に、新しい活力を現実界からもたらすのが「狂気」です。ロボット化した日常に現れるトリックスター。ピノキオのもとを訪れるジミニークリケットです。狂気は、捉え損ねることがなければ、恐ろしいものではありません。自分の「既知の体系」を揺すぶられ、攪乱される覚悟があれば、やっていることは初春の田打ち、田畑の土を掘り起こり耕す行為と変わりない。狂気は「空っぽ」の中で熟成し、新しい、力ある「言葉」を生み出します。こう書いてしまうと、昔なつかし「異人論」ですけどね。








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