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『分析技法における構成の仕事』(1937)

「私は「構成」というほうがはるかに適切な名称であると思う」

精神分析が行うのは「解釈」ではない。ナチスに故郷を追われ、イギリスに亡命しようとしたフロイトが(といっても実際の亡命は翌年だが)、海外で行われている「精神分析」の現状を見て、唖然としたのがこの論文だと思う。"Deutung(読み解く)"というドイツ語が"Interpretation(翻訳)"と訳されることで誤解が生じている。分析医は決して、被分析者の心の内を言い当てようとしたりはしない。「抑圧されているものを、分析家は知っているけれど、患者は知らない」などという態度は取らない。自分の理解者だと思っていた人たちから全く誤解されていると知ったフロイトは、絶望と孤独感のなかでこの「声明」を書いています。

【心の考古学】
ことの起こりは、ある知人のコメント。「患者が分析家の解釈に反対しても、それは単なる抵抗と見なされ、解釈は正しいとされる」。そんなバカな! そんなアンフェアなことを私は言った覚えはない。一体どこでそんな間違いが生じたのだろう?

フロイトは自分の仕事を、考古学者の発掘の仕事に喩えます。破損した埋蔵物を拾い上げ、柱が建てられていた穴の跡をたどり、元の遺跡を再現しようとする試み。被分析者の語る言葉から素材を集め、それを組み合わせ、元の「記憶」を再構成しようとする。「あなたは〜歳までは、たった一人のお母さんの独占者だった。そこへ二番目の子供が生まれたが、それと同時に大きな失望が生じた」。分析家の語る言葉は、自分の勝手な空想であってはならない。被分析者の言葉を組み合わせ、欠けているところを補充してもらいながら、一つのまとまったストーリー(物語)に仕上げようとする仕事。

この「構成」の正しさはどうやって保証されるのかという問題も出てきます。もし分析家のする構成がすべて「正しい」とされるなら、それは先の知人のコメントとなんら変わらないものになる。でも、だいじょうぶ。分析家が行ってるのは、自分の知的満足のためではなく、治療のためのこと。「正しさ」の判定は、治療のプロセスが証明します。つまり、間違った構成をした場合は、被分析者は何の反応も示さない。まるで何事もなかったかのように、それまでと同じ連想を繰り返すだろう。構成が「正しい」ときには、必ず、新たに構成を拡大するような記憶が想起される。連想が広がる。それも、生き生きとした場面や顔や物を思い出す。そして、確かに症状が改善する(もっとも「悪化する場合もある」と、怖いこと言ってますけど)。

【物語的真実】
この想起されたものこそが「抑圧されていたもの」だとするフロイトの立場は、僕個人としては説得力がないように思います。もし、それが実際に起こった体験で、本人は無意識的に忘却しているというのなら、フロイトはその患者の家族から情報収集して「正しい記憶」を構成する方向もあったろうと思うのです。でも彼はそうしていない。本人が思い出し、本人が納得した「記憶」を「抑圧されていたもの」と定義している。記憶が事実であるかどうかに無関心です。

このフロイトの態度は、彼が「学者」ではなく「治療者」だったからだと思います。治療的に有効なものこそ「正しい」という態度。そして、臨床家は基本的にそうであるべきと思います。だから彼は、構成によって喚起される「記憶」を「歴史的な真実」と言い換えています。「事実」ではない。「歴史的(historische)」というドイツ語は「物語的」という意味もあります。自分自身の「人生」という物語で腑に落ちる真実。物語的真実。それを再構成し、描き出すのが分析家の仕事です。

あと、凄いなあ、と思うのが、幻覚妄想に関しても「本人なりの構成の仕事」と見なしていること。それ故、「妄想を迷いごととして訂正しようとするような馬鹿げた努力は捨て、すみやかに妄想の核心を承認せよ」という治療方針を出してることです。全くそう思います。それと「人類全体も妄想形成を行っている」という指摘。全くそう思います。

【過去を歴史に変えよ】
この論文は、ラカンが『フロイトの技法論』で重視した治療論です。「過去(passe)を歴史(histoire)に変えよ」というラカンの立場は、もちろん彼が精神分析と出会う前に担当した女性エメとの関わりから得た治療観です。妄想症と診断された彼女に会い、駆け出しの精神科医ラカンが右も左も分からぬまま、ただ本人の物語を聴いているうちに、患者が治ってしまう。たった33日で。(妄想症は当時「器質的な変質が原因だから治療はできない」とされていました。「変質者」や「神経質」という言葉にも、その古い精神病理学が透けて見えます)。その体験に驚いた彼が、自分のしたことを説明してくれる理論を探し求め、フロイトを見つけました。ラカンの理論が理解されにくいのは、出発点があまりに本流からかけ離れていたからかもしれません。

僕は、この立場を受け継いで発展させているのは、オーストラリアのPSWマイケル・ホワイトだと思っています。彼が取り組んでいるナラティヴ・アプローチは、システム療法の間で「精神分析への先祖返りだ」と非難されていますが、しかたないですね。フーコーやデリダを参照しながら実践を組み立てれば、間接的にラカンの影響を受けてしまいますから。

【分厚い読解】
ひとは「物語」を生きています。通常は、自分のなかにある支配的な物語(ドミナント・ストーリー)だけで、人生を読みとっています。それは社会から押し付けられた「薄い読解」です。人生は、一度に様々なことが起こっているのですが、その中からドミナント・ストーリーに合う部分しか、ひとは意識していませんし、そのストーリーに合うように自ら悲劇を選択したりします。「いつもいつも」とか「どいつもこいつも」とか感じてしまうとしたら、それは自分が「薄い読解」をしている信号でしょうね。よく僕自身そう思ってしまって、情けなくなるときがあります(^^;。

いまある技法を「再構成」の観点から見直すと、大きく分けて2つの軸があるように思います。1つは時間軸。過去から未来に延びている時間の中に自分自身を位置づけること。行動療法のスモールステップもそうだし、SFAのスケーリングもそうです。NLPのタイムラインも、この時間軸での再構成と言えるでしょう。もう一つは空間軸。特に、ある場面での対人関係の広がりを描き出すこと。それを、相手の立場から眺めたり、第三者の視点から眺めたりする。ゲシュタルト療法のホット・シートもこれだし、交流分析のA視点もそうだろうと思います。クラーマンの対人関係療法は、もっぱらこの観点から人生を再構成していこうとします。カウンセラーはインテークの段階でまず「生育歴」と「社会的サポート」を明確化するのですが、それは時間軸と空間軸にクライエントの関心を向ける意味がありそうです。

【変化のプロセス】
カウンセリングをしていると、クライエントの語り口が変化していくのに気づきます。大きくわけると3つの段階があると思います。まず、自分のことを、他人から言われてきた言葉で語る段階。「私はダメな人間だ。生きる資格がない」。でもそれは「あなた」の言葉ではない。「誰か」がなにか理由があって言った言葉。第2の段階に入ると「心理学用語」が入り込んできます。これは「心」の籠っていない言葉です。でも、この時期を経ると、自分の人生を「自分の外」から眺める目が育ちます。物語を読む「私」が生まれてくる。「私」が二重化すると言って良いかも知れません(この自己治癒過程が、不完全に自然と起こるのが「解離」かも知れない)。そして3つめの段階に入ると、「私」を「私の言葉」で語り出します。二重化していた「私」が一つとなる。物語を読む「私」から、物語を生きる「私」になります。

「物語的真実」とは、ドミナント・ストーリーと平行して起こっている別のストーリー(オルタナティヴ)にも目を配ることです。人生を「厚く」読み解く。リフレーミングとは少し違います。意味づけを変えると言うよりは、人生の意味を増やして、いろいろな物語を生きていることを自覚することだからです。人生は「一筋縄」ではない。二筋も三筋もある。とても複雑で、矛盾をはらみ、その矛盾が人生を豊かにする原動力になっています。そういう、厚い人生を生きることが、フロイトの言う「構成」なんだと思います。








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