『精神分析療法の道』(1918)
「患者は、彼自身の本質の解放と完成に向かって教育されなければならない」
精神分析の認識は不完全である。まだまだ、心について私たちは何も分かっていない。場所は第5回精神分析学会。つまり、身内に向けてのメッセージですから、遠慮があります。みんなをがっかりさせてはならない。だから肩に力が入ってます。「同僚の諸君!」なんて言ったりして恥ずかしいです。私たちの方向は間違ってはいない。この方法こそ正しいのだ。正しいのだけど・・・・。この「・・・」がミソな演説ですね、これは(笑)。
【抵抗の発見】
まず、精神分析とは何かという定義が明確に述べられます。「抑圧されているものの意識化」と「抵抗の発見」。この2つからなる。ここで「抵抗の発見」が議論の的となります。「発見」なのか? なぜ「解消」ではないのか? 患者は無意識の意識化に対して抵抗をしている。そういう立場であるなら、抵抗を分析して、その抵抗を止めさせることが精神分析の目的になるはず。でも、フロイトの視点はちょっとずれてます。どうも「抵抗」をそういうふうに考えていなかったらしい。治療の公式が語られます。「抵抗によって分裂している精神生活が、分析によって大きな統一「自我」に向かう」と。
症状の定義が「抵抗によって分裂している精神生活」になるとは、僕は知りませんでした。こういう発想は正しく伝わってないんじゃないか、そう思ってしまいます。たしかに抑圧や乖離が初期の精神分析のターゲットでしたから、その点を指して「分裂している精神生活」なのかも知れません。しかも「大きな統一」として「自我(ch)」という言葉を出してきています。これは1923年の『自我とエス』の「自我」とは別物だと考えて間違いないでしょう。後代のセラピストなら「自己」と呼びそうなシロモノです(というか、フロイトはただ「私(Ich)」と言ってるだけで、それを「自我」とか「エゴ」とか訳すのは後世の専門家の"気取り"ですけどね。誰にでもある「こころ」の話を日常語で話さなかったら、そこに体感がこもるわけがありません)。大きな統一。自己一致です。さらに「精神的なものは、自動的に統一化に向かう志向がある」という公式も出していますから、何もしなくても自然と「大きな統一」へと心は向かうものなのです。「抵抗」というのは「大きな統一」へ向かうことに対しての抵抗。「自己についての知識が拡大することへの抵抗」とも書かれています。治療者に対して抵抗しているのではありません。自分への抵抗。自然な統一化への流れに抵抗しているのです。
「症状」は、統一化を促そうとする信号。でも本人は知りません。「症状」を解消しようとして、「抵抗」をさらに強めます。そして「抵抗」が、新たに「症状」を再生産する。何が起こっているか知らないから、そんな奇妙な事態になってます。抵抗は発見されることでその力を失います。というのも、発見されることで、抵抗の力も「自我」の力に再統合されるからです。それが「分析」です。・・・ってびっくりです。ああ、そうだったんですか? 「抵抗を止めさせよう」なんて話じゃないんですね?(驚)
要するに人間は生命体である限り、治る方向に進もうとする傾向、つまり自然治癒力を持っています。だから治療者が「治そう」なんて力む必要はありません。治る方向に進むことを妨害しているのは、その「治そうとする努力」なのです。「分析は化学でいう解析に似ているけれども、でも化学の比喩ではぴったりこない」なんて、何が言いたいのか分からないことをフロイトは言います(笑)。良い比喩がなかったのでしょう。「分析」なんて言葉を使わなきゃ良かった、と後悔してそうです。「分析の後には精神綜合が必要だ」なんて考えが学会の中から出てきていたらしく、「いや、それは分析って言葉の綾に囚われてますがな」とフロイトは困ってます。「精神綜合」なんて努力は要りません。つまりフロイトには、症状を形成していた「抵抗」の力もまた「大きな自我」を構成する有意義な力となっていく、という治療観が根底にあります。
【終わりなき分析】
ここまででも、普及している精神分析とは違う立場をフロイトが述べていて楽しいのですが、この論文の醍醐味はさらにその奥。スイス学派やアメリカ学派への批判の部分。「精神発達の段階を考え、クライエントを高いレベルへと進めないといけない」という教育的治療論があったようで(って今もありますが)、それに対する「異議」を唱えています。「われわれの理想を押しつけてはならない」「患者を高める、という目標ではない」。どんな高尚な意図があろうと、価値観の押しつけは押しつけに過ぎません。そんな立場は、精神分析としては断固と排除します。精神分析に「答」などありません。答はクライエント自身の「本質」にあり、分析家はそれが解き放たれることを援助するに過ぎないのだ、と。
発達段階があるかのように考えているのが今の精神分析です。暗にそれを想定している。なのに、フロイトは考えていません。もちろん、僕はフロイトのほうが好きです(^^)。人生は先が読めないものだと思いますから。先の読めない人生を、誰か他人「専門家」に決めてほしくはありません。動こうとしている人生の動きを、うっかり自分が封じ込めてしまっていることはあるかも知れません。その場合は、他の人の援助が要るでしょう。それが「抵抗の発見」です。「分析によって自己認識=自己コントロールの増大がどんなに意義深いものか理解した者は、誰しも自己自身に対する探求をその後も継続し、自己の内面に常に新たなものを見出すことができる」(『分析上の注意』)。この考え方はシンプルで「仕事っぽいなあ」と思います。仕事っぽさは、フロイトが人間の限界を理解して受け入れているからでしょう。
【精神分析の未来はない】
結局「今は上流階級相手の仕事になってしまっている」という、フロイトの意識にあるように思います。他の分析家には、「高尚」な人を相手に「高尚」な治療をしたいという欲望があるようです。でも、フロイトにはありません。フロイトの描く未来は「貧しい人々も、精神的な援助を要求する権利を持っている」という言葉にあります。「大衆相手のただの治療」を最終目標にしています。心の苦しみを酒や暴力で紛らせてしまっている「大衆」のためにメンタルヘルスを考えています。いつかは人々が、身体的な健康だけでなく、精神的な健康も大切だと気づき、国家的な援助が行われるようになり、無料で精神療法を受けることができる日が来るだろう。そう予言しています(日本はそういう「未来」になったと言えるでしょうか)。そして、そのときの精神療法は、もはや「精神分析」ではないだろう、と。
大胆な予言です。精神分析学会で、自分の作った精神分析に付いてきてくれている人たちを前にして「精神分析はなくなるだろう」と言っています。ヒステリーの治療としては、精神分析は残るかも知れない。でも、恐怖症の治療は、自由連想より先に、実際に恐怖の場面に直面してもらわないといけないだろう。強迫行為の治療には、ただ分析していても変化は起こらないから、対抗強迫を処方しないといけないだろう。もっと短期間での治療が要求されるから、催眠療法の見直しも行われるだろう。どれも、的確に言い当てています。彼は分かっています。そしてそれでも、精神分析的な考え方はそれぞれの治療の要素として、重要な構成要素として残るのではないか。『精神分析入門』を書いていたころ既に、フロイトは次の時代を見据えていました。
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