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『転移の力動性について』(1912)

「僕は君の前なら恥ずかしくない。君になら何でも話せる」

転移分析。それは精神分析の要と言える作業です。フロイト自身、『分析治療の開始について』で「転移が発展するまで、分析医は最初の解釈投与を差し控えていなければならない」と述べています。それまでは「感情移入以外の態度で振る舞えば、成果が台無しになってしまうのは言うまでもない」。感情移入(共感)により転移が発展し、転移分析により治療が完了します。相変わらず、フロイトの治療論はシンプルです。そのため精神分析は「半年から一年」治療に時間が要してしまう、とフロイトは恥じていますが、すいません先生、僕は一年以上かかります(^^;。

【転移の定義】
さて、本論文に戻り「転移とは何か」見ていきます。「転移」の定義は「満たされなかった部分のリビドー備給が分析医に向けられる現象」と書かれています。フロイトのこの定義を検討する前に、まず、よくある「転移の定義」から考えてみます。「幼いときからの愛情生活のなかで、人は対人関係のパターンを作り上げている。そしてそのパターンを、新しい出会いのときにも応用する。母親に愛されていた人は、「母親のような人」に出会えば、そこに昔の「母親との関係のパターン」を再現するだろう。そうでなかった人は、そうでなかった関係を再現するだろう」。そう考えるのが、一般的な「転移」の定義です。

で、もちろん、フロイトの定義はちょっと違っています。「満たされなかった」を問題としています。愛情生活のなかで、きちんと意識化され、発達を遂げている対人関係パターンはごく一部。誰でもそうです。日常生活では、その一部のパターンをやり繰りして「人付き合い」というものをしています。大半の対人関係パターンは、発達する機会のないまま、無意識的な状態にとどまります。その部分が、転移状況で表に顔を出します。

つまり、転移で生じる対人関係パターンは「人生になかった関係」です。今まで生きてこなかった関係です。これはどういうことでしょうか。フロイトは混乱していますが、たぶん、投影と転移とを区別すればいいと思います。実際に体験した関係を治療場面でも起こしているときは「投影」、実際には体験しなかった関係を起こしているときは「転移」。ほら、すっきりするでしょ?(笑) この2つは別物です。転移は「連想の停滞」という形式で表面化します。「なかった関係」であるが故に、連想が欠如してしまう点が起こる。その関係には、まだ中身がない。そういうふうに、僕はこの部分を受け取りました。

だからイマーゴの話になるんだと思います。イマーゴというのは、実際に体験したものではなく、生まれつき持つ認知枠です。フロイトは「男性治療者であっても、患者から母親イマーゴや兄弟イマーゴを転移される場合がある」という話をします。つまり分析家を「母なるもの」のように思うこともあるし、「双子転移」のような転移を起こすこともあります。それは実際の生育歴とは関係ありません。イマーゴは、人間が外界、特に人間関係を捉えようとするとき使っている鋳型であり、もとから自然と備わっているものです。人は白紙の状態で生まれてくるのではありません。和訳では「素質」と訳されていますが、フロイトが添えているギリシア語を見ると「ダイモン」と書いてあります。生まれながらに心の中にはダイモン(小さな神々)が住んでいて、それが境遇(こちらのギリシア語は「テュケー」で「運」という意味)と相互作用を起こして、愛情生活の「印刷原版(対人関係のテンプレート)」を作り出す。単純な「親の育て方」の話ではないようです。「私たち人間存在の一人ひとりは、こうした自然の<原因>が経験の中に押し入ってくる、無数にある実験の一つなのである」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)。

【恋愛感情】
ここで2つの問いが立てられます。「問1.分析中の転移が、一般の人間関係よりも強烈なのはなぜか」「問2.なぜ、転移は治療に対する抵抗として現れるのか」。こういう問いを、なんで思いつくんでしょう? 転移は強烈でしょうか。治療に対する抵抗なのでしょうか。初めから、転移を悪者扱いして論が進みそうな予感です。でも「名探偵」なら、「怪しい人物だからきっと犯人」なんて決めつけはしないでしょう。そしてフロイトは名探偵です。自分の立てた問いを、批判的に突き崩し始めます(フロイトのロジックの進め方には、このパターンが多い)。

問1のほうは簡単です。「実際に起こっているけど、気づいてないだけ」といともあっさりです。一般の病院でも、転移現象は起こっています。病気が悪化したり、通院を中断することがあります。反対に、入院中は具合は良いけれど、退院するとすぐ悪化してしまう人もいます。医者も患者も病気のせいだと思っています。転移に気づいていない。「こんな治療、まったく意味がない」とフロイトは思っています。

それだけではありません。3年後の『転移性恋愛』という論文では、一般の恋愛感情と、転移による恋愛感情がどう違うか論じています。とても混乱した論文です。「転移性恋愛は病的で幼児的」という主旨で論を始めているはずなのに、検討を重ねるなかで「一般の恋愛感情も、実際には病的で幼児的」となり、「転移性恋愛は病的とはいえ、不快なものではなく、その本人の魅力を引き出すことが多い」という話になります。じゃあ、「転移性恋愛もまた恋愛である」と言えば良いじゃないですか(^^)。そのクライエントの「人を好きになる能力」を引き当てたわけです。「治療が終わった後でそれが必要となるときの現実生活のために残し、用意しておくようにすること」。つまりフロイトは「その力は、本来その人が愛すべき人に向けられていくべきで、治療者がつまみ食いしてはいけない」というモラルの話にしています。ええ、もちろんです。心を開いて語りあう関係は「愛」です。なんか、フロイトが人間的な悩みを語ってるようで面白い。クライエントさんに「魅力」を見つけてしまって苦しんでいる気持ちが、見え隠れします(^^)。

つまり、日常生活でも「転移」はあり、強烈です。今までなかった、初めての関係。「恋」ってそうじゃないですか(笑)。「初めて」なんだから、それは「幼児的」な状態から始まります。そして、強烈です。ただ、それを「転移」と呼ばないだけ。

【転移の意識化】
で、次の問2ですが、「リビドーの内向」と「リビドーの退行」の区別、「抑圧抵抗」と「リビドー抵抗」の区別、「今ここ」の話といった前ふりがあるんですが、飛ばします(爆)。結論として「転移性抵抗に選ばれる要素は、病因的な意味があるわけではない」。ここ、大事です。次の中間テストに出ます(爆)。そう、母親転移が起こったからといって「母親との関係に問題があった」ということではないのです。たまたま、母親についての観念(イデア)が選ばれた。転移の内容は、症状とは何も関係ありません。

転移が抵抗として問題になるのは、自由連想の停滞を生じるからです。しかし、フロイトが挙げている転移分析の仕方はお手軽です(笑)。「今あなたは、私に関係あることで頭が一杯になっていますね」。そう言うだけ。この言葉だけで、連想の途絶は沈黙という状況に変わる。見た目は同じです(笑)。フロイトは、言葉巧みに、状況の意味づけを変えているのです。あなたは自由連想に失敗したのではなく、「二人の関係」を意識化しようと沈黙している。そう意味づけることで、治療の流れは「転移の意識化」のほうに向かっていきます。「無」。つまり、内容を持たない「型(エイドス)」がそこに誕生します。中身のなかった空っぽの「関係」に、これから中身を作っていく。転移分析はそう捉えると、分かりやすそうです。

さて、なぜ転移を意識化しようとするのでしょうか。フロイトの定義では、転移は「陽性転移」と「陰性転移」に区別されます。陽性転移はさらに「親愛的転移」と「性愛的転移」に区別されます。起源が別なのではありません。起源を問えば、いずれも性的です。違いは、意識化の度合いにあるのです。「関係を持ちたい」という想いを意識化すれば、それは親愛感情になります。反対に意識化されないとき、「関係を持ちたい」を間接的に表現するほかなく、行動化された陰性転移や性愛的転移になります。「関係」が、敵対関係や肉体関係として表現される(治療者に自分と似たものを感じると陰性転移になり、自分に無いものを感じると性愛転移になるのかも)。そのままでは、リビドーを現実的に活用する方法が見つかりません(フロイトの<性 Sexualitat>という言葉はどぎつく聞こえますが、単純に生物学用語です。「われわれは<性>という言葉を、ドイツ語の<愛する lieben>と同じように広い意味で用いる」『乱暴な分析について』。リビドー libido も、lieben を難しく言っているだけです)。

リビドーの発達論は、ここにおいて考慮すべきです。実際の生育歴とは関係ありません。発達心理学ではなく、治療プロセスなのです。「依存」をテーマにする(治療プロセスにおける)口唇期は性愛転移を扱い、「自我形成」をテーマにする肛門期は陰性転移と直面化し、「意識化」がテーマとなる男根期で、「関係」に注意を向ける土台が形成される。分析場面は、それまでの二者関係から、三者関係(分析者−分析家−その関係)に変わります。二人の主体が向き合う二者関係はパワーゲーム(主と奴の関係)を引き起こすが、その二者間に共同注視の対象を措定することで、互いの眼差しはぶつかり合うこともなく、転移が深まっていきます。そこに起こる関係について共同研究をしていくこと。

そう考えると、親愛転移はK-linkと見做すことも出来そうです。自分を知りたいという欲望。その欲望が分析家との間に展開すればプロセスは進展しますが、L-link(性愛転移。口唇期。WORU。見捨てられ不安)やH-link(陰性転移。肛門期。RORU。呑み込まれ不安)にリビドーが使われると、それはK-linkからの逃避にもなるわけです(ビオンのbasic assumptionも、D場がL-linkでF場がH-linkと考えれば、転移をグループ・レベルで扱えるようになる。そもそも"assume"は「雰囲気を帯びる」なんだから、その名詞から作られたbasic assumptionは「場の空気」のことだろう。それにしてもなるほど。仏教の三毒も、貪(L-link)・瞋(H-link)・癡(-K-link)と考えれば、内なるもの(大他者=阿弥陀仏)への道が二河白道になるのも、もっともなことだ)。

結局、精神分析とは「意識から失われたリビドーを探り求め、無意識の領域に突き進む」行為です。インディー・ジョーンズな世界です(笑)。無意識の領域とは「無時間性」の領域です(フロイトの無意識の定義は「時間感覚がない」ということ。「意識していない」ではない。笑)。だから、生活史のなかに位置づけることができれば、そのリビドーは時間性を取り戻します。それが「意識化」です。この論文までのフロイトは認知主義でした。つまり「頭で理解すれば治る」という立場でした。この論文から体験主義が出てきます。「意識化」は、転移状況の中での体験化を意味し始めます。愛する力(リビドー)を、今ここで活かせるようになる。「精神の内部に隠され忘れられた愛情の動きを現実化・顕在化する仕事」とも言っています。そう考えると、転移現象が起こらなければ「実際には存在しない影でしかないもの」になってしまうのですが、転移のおかげでリビドーは形あるものとなり、取り戻せるわけです(和訳では「影=転移」のニュアンスで訳しますが、それだと意味が通らないような??)。

【結論】
まとめると、この論文は転移の積極的評価です。転移は「それまでにはなかった関係」を分析家との間に築き上げます。自由連想の停滞が起こったとき、治療者との関係に注意を向けることで、転移は親愛感情へと発展します。その親愛感情のリビドーこそ、生活史のなかで失われ無意識へと退行していたため、間接的に症状として表現されていたものです。

たぶん、手持ちの対人関係パターンだけでやり繰りのつく間は、症状も出なかったでしょう。新しい「関係」(つまりは、それを担うダイモン)が必要とされる契機が何かあり(これも「生活史」なのでしょう)、退行していたリビドーが活性化される必然性があったと考えないと、症状と転移とのつながりが不明瞭です。その仮説があれば、親愛感情が芽生えることに意味があり、フロイトが「忘れられた愛情の動きを現実化すること」を目標としているのも納得できます。








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