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『精神分析学概説』第六章 精神分析技法(1938)

「差し当たってわれわれは、これ以外の手段を持っていない」

■「夢は一種の精神病である」

夢は精神病と同じ特性を持っている。精神が深層に達した(退行した)状態である。なのに、誰でも朝になれば目が覚め、もとの状態に戻るではないか。ならば、一般の精神病も治療可能なはず。・・・いきなり、大胆なロジックで始めてます(笑)。

■「患者自身の知らないことを物語らせようとする」

自由連想の原則。「頭に浮かんだことは、たとえ不愉快であれ、つまらない、あるいは無意味なものに思われようとも、そのまま話さなければならない」。この指示の意図は何か。もし「秘密を厳守するから、率直に話して欲しい」であれば、ただの懺悔聴聞僧と同じこと。そうではない。自由連想の意図は「患者の自己批判を取り除く」なのだ。

すると、そこまで書いてある「治療同盟」の話がウソ臭い(上の引用文までが、そういう治療契約の話なんです(^^;)。エスや超自我の反乱によって弱体化した自我に対し、治療者の自我が援軍を送るという同盟を結ぶ。それが治療契約だ、と言いながら、でも「自己批判を取り除く」なのだ。自我という「王様」に加担して反乱を鎮圧する、なのではない。エスや超自我の声に耳を傾けるよう、進言するわけである。テロリストの声に耳を傾けない王様と「契約」しておきながら、「無意識についての自我の知識を拡大」することを目指す。つまり、テロリストの言い分を聞け、といっている。イカサマである(笑)。

結局、最初に訪れたときの「症状」は糸口である。それが、分析で語られるべき「話題」なのではない。話題はまだ、お互いが「知らないもの」なのである。まずは「症状」の話をし、分析家が語るに値する人物か、無意識は吟味している。少し考えてみれば分かると思う。もし二人の間の「窓口」が「症状」しかないとすれば(分析家が「その後、病気のほうはどうですか」と尋ねれば)、「症状」が消えると二人の関係も消えてしまう。セラピストを信頼し、関係を終わりにしたくないとき、その症状が消える方向に動くわけがない。だから、本当の「窓口」が開くまで、分析家は沈黙を守らねばならない。症状など二の次に過ぎない「問題」が、次の転移分析の段階で出てくる。

■「分析医は、患者の個性を尊重せねばならない」

転移分析について。転移によって、分析医は患者の「新しい超自我」となる。つまり、心の中で「両親」が着いていた地位に、新たに分析医が置かれる。ここでもし分析医が「己の理想に従って、人々を教育したい」と思ったなら、もう辞めちまえ。「自己の責務に対して不忠実である」とフロイト先生は怒ってます(^^;。「子どもの自主性を圧殺した両親の誤りを繰り返しているに過ぎない」。

さらに転移には「患者は分析医の前で、言語的に報告するかわりに、行動的に演じて見せる」側面がある。Agieren(行為化)。言葉では伝えにくい、でも生活史上重要な部分は、転移を通じて表現される。だから、転移を辞めさせるのではない。転移を、自己表現として完成度の高いものへと導くことが肝要となる。行為を言葉で表現すること。verbalization(動詞化)が決め手となる。

■「患者は、見知らぬ人を信じない子どものように振る舞う」

陽性転移は、やがて陰性転移へと変わる。だよなぁ。この段を読むと「ほんと、カーンバーグってバカだよなぁ」と思う。彼がボーダーラインの分裂態勢だと力説していたものは、ほら、フロイトがすでに述べてる。「愛する人は盲目的に信じ、見知らぬ人は信じようとしない」子どものような態度。それは、精神分析のなかでは当然起こることだし、また、起こるべきものである。それを、この段階で治療を中断し「相手は人格障害だった」とうそぶくような輩は、初めから分析医になる資格なんてない。

フロイトは書いている。「この体験は、幼児期に起こったことの反復である」。上で書いたように、これは行為化。「彼は自分が侮辱されおろそかにされたのだと思い、分析医を憎悪する」。いま感じている「体験」が、いま起こっていることに関係あると思えば、これは当然の反応。でも本当は、いままで凍りつかせて感じないようにしてきた「体験」が、陽性転移によって温められ溶け出し、「いまここ」で感じるようになっている。よかった。それが、精神分析を始めた理由。あとはその「体験」を「過去の反映」だと理解し、あるべき場所に戻せば済むだけのこと。恨むときに恨む練習をしなかった。嫌だと言うときに嫌だと言う練習をしなかった。いま、それをしている(とくに「ネズミ男」のケースなんかは、そういう展開ですね)。「転移の形で体験したことは、決してふたたび忘れ去られることはない」。分析は言葉遊びじゃない。体験を通しての洞察。「患者はわれわれの構成を直接に立証し、忘れられていた事件を自分から想い出すというところにまで達する」。

ただ、こうした側面を取り出して「フロイトは母子関係を重視していた」と論じる人が多いが、それはどうかと思う。フロイトが「母親」を語るときは、それは分析家の態度を指していると読み替えるほうが筋だろう(なにしろ、フロイトが言うような「母親としてのあり方」が、まだ鞭で子どもを躾けていた20世紀初頭ウィーンの上流家庭にあったとは思えない)。その転移状況で、分析家がどう振る舞えば良いのか。その指針としての「母子関係」。口唇期・肛門期・男根期と続く「発達段階」は「分析家との関係がどこで停滞し、どう進展するか」のロードマップに過ぎない。男性分析家であっても、子宮を持っている。その子宮でクライエントを受け止め、新しい関係を産み出していく。もちろん、その姿勢を実際の子育てでも応用することは悪いことではない。でもあくまでもそれは二次的な話だ。

■「無意識は、われわれを援助する」

無意識の欲望は、その承認の欲望だけだと言っていい。ここが一番肝心。無意識は、実現を望んでいるのではない。「自我が要求を改めて検討し直したあと、それを取り上げるか、それとも破棄し去るかは、どちらでもよいことである」。適切なら取り上げ、不適切なら破棄する。その判断を、無意識は待っている。判断されれば、その要求は役割を終える。しかも、これは一回体験すれば「ああ、なんだ。耳を傾ければいいだけか」と自我は気づく。「一生存続する喜ばしい自我の変化を招来する」。

喩えは変かも知れないけれど、精神分析は、言葉を使った箱庭療法だと思う。言葉を「玩具」のように見立てて、面接室という「砂」の上に置いていく試み。話の内容や潜在意識は、あまり関係ない。言葉が置かれていくなかで描かれる「風景」が、そのまま治療なのである。箱庭療法が投影法などの心理検査と違う点は、描き出されたとき、それはもう心の中では収まっていることだ。テストだと「今、この人の心の状態はかくかくしかじかである」なのだが、箱庭療法は「さっきまでは、こうだったらしいが、今ここからは次のテーマに入っていく」という、時間の先行がある。セラピストは取り残される。取り残されながら、言葉を置くに値する「砂」としてクライエントさんに認めてもらい変形させられ続けるのが、分析家の務めである。

■「この抵抗因子は、罪意識と呼ばれている」

ただ困った場合というのは、いつもあるもの。疾病要求。つまり、超自我に源泉を持つ「健康になってはいけない」という要求。神経症が治ったと思うと、つぎに肉体的な病気に罹ることがある。「問題は、当人が悲惨な状態にあるということで、悲惨な状態がどういうものなのかはどうでもよい」状態。過酷な超自我からの要求。「健康になるに値しない」という、言われ無き罪を患者は負わされている。

このタイプの神経症の場合は、フロイトは戦略を変更していたらしい。「この抵抗に由来する防衛についてただ意識化させることと、敵対的な超自我を徐々に破壊する試みとに、努力を限局すべきである」。つまり、目に見えている「症状」は、所詮この罪意識の傀儡政権に過ぎないのだから、本体に照準を合わせよ、というわけである。たしかに難しそうだ。でも「ただそれを意識化させる」というフロイトの筆の運びを見ると、ほんと、ただ意識化だけでいけるのかも知れない。というか、それを押さえずに前に進んでも、砂上の楼閣になるのは理解できる。

■「神は、強いほうの軍勢に味方する」

最後の段は、治療の限界について述べたもの。冷徹なリアリストの側面をフロイトは見せています。要するに、治せる人しか治せない。治療に協力してくれるエネルギーが患者のなかに残っていないときは、治療できる確率は低くなる。当然といえば当然だし、冷たいといえば冷たい。

でもフロイトは、治療の可能性を病理水準に見ていたわけではない。治療者に協力してくれる部分への着目をしていた。無意識は基本的に治療者への協力勢力となろう。すると残りは、自我なのである。自我は弱体化していてもかまわない。ただそこに、協力勢力があるかどうか。そういうエネルギーを持っているかどうか。それが治療因子として外せないものとして働くのである。

でも、きっとあるんだよなあ、このエネルギー。それがあるから毎週カウンセリングに通ってくれるんだって、僕は信じています(^^)。








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